小さなまとめ 1 2★ 3 |
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==アメリカでの留学時代==
アメリカ人の家庭で、本格的な教育を受けるため、
三人は、それぞれの家庭へ引き取られることになりました。
捨松は、コネチカット州ニューヘイヴン、レオナルドベーコン牧師の家に引き取られました。
国費留学生なので、学費生活費などは全て国で見てくれます、恥ずかしくない充分な金額でした。
礼儀正しく頭が良いとても感じの良い子として、多くの人々から愛さ、びのびと幸せに過ごしました。
16歳で、ニューヘイヴン高校入学、(ベーコン牧師の家で過ごす。)
世話になった、ニューへイヴンのベーコン家
ニューへイブンは楡の木がうっそうと町を取り囲む、
アメリカでも最も美しく文化的にも進んだ、そしt落ち着きがあり、保守的な町でした。
3年後、ニューヨーク州ポーキプシー町にあるヴァッサーカレッジに入学(全寮制)
ヴァッサーカレッジ在学中の写真。 | ヴァッサーカレッジ在学中 明治13年ごろ |
捨松の生涯の友人 アリス・ベーコン |
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捨松と永井繁子の通った、ヴァッサーカレッジ同窓会会館
この中に「大山公爵夫人記念室」があった。
23歳、優秀な成績で卒業
アメリカで過ごした、10年間、
勉学に励み文化を学び、充実した幸せな日々でした。
私は南北戦争前後の、「若草物語」の世界を思い浮かべました。
「赤毛のアン」もひょっとしたら、この時代だったのでしょうか?
鬱蒼たる楡の木に囲まれた、ニューヘイヴンの町、
礼儀正しく教養があり、文化的でありながら、落ち着いた保守的なものを尊んでいる。。
この姿勢は、武士(サムライ)の生きざまと近いものを感じます。
抗争の中で、不本意にも賊軍の汚名を着せられた会津藩でしたが、
海外の文明を積極的に取り入れていました。
長兄の大蔵は、幕府の使節団の一員としてロシア〜ヨーロッパを見聞し
捨松の次兄、健次郎は留学生として、エール大学を日本人初に卒業しました。。
==卒業〜帰国==
ヴァッサーカレッジの「クラス・オブ・’82」の同級生たちと卒業記念写真
最後列右端が捨松、明治15年
成績優秀で、卒業生39人の代表10人に選ばれ、
「イギリスの日本に対する外交政策」 というタイトルで、演説をし、
もっとも素晴らしかったとの評価を得ました。
明治15年、ヴァッサーカレッジを卒業 23歳 (ニューヨーク・ブロードウェイで撮影) |
明治15年に帰国、 宮中に帰国報告のため参内したときの衣装 |
=鹿鳴館時代=
大山捨松
日本に帰国、1年後、1883年明治16年
参議、陸軍卿、大山巌と結婚、伯爵夫人となる。
結婚披露宴は新装なった「鹿鳴館」で、盛大に行われました。
直前、岩倉具視他界
華やかな夜会服姿
鹿鳴館建物
所謂鹿鳴館時代、華やかな装いの紳士淑女たち
小節にも書かれたそうですが、私には程遠い話、殆ど無関心で、ここまで来ました。
今、曾孫にあたる久野明子著の文庫本を読みつつ、
幸せだったアメリカでの留学時代を思っています。
捨松は、生物や生理学が得意だったようです。
それと、時事情勢にも敏感で、愛国心強く、帰国したら
日本に女性のための学校を作るのを夢に描いていました。
そのことのために自分はアメリカに留学をしに行ったのだと信じていましたから。。。
ひょっとしたら、律儀な教育者になっていたかも。。
鹿鳴館時代や小説「ホトトギス」で、中傷されるには惜しい人材だったと思います。
自分の夢を実現させるには、当時の日本の社会の中では
結婚し、夫の地位を背景に、人々の意識を変えていくしか方法がない
それが人生の選択でした。
夫、大山巌について
後ほど・・・
続 く
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参考資料:
久野明子著 「鹿鳴館の貴婦人 大川捨松」 中公文庫