鹿鳴館の貴婦人 小さなまとめ
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〜鹿鳴館時代〜


                                     鹿鳴館の貴婦人  久野明子著  表表紙より




              
貴婦人像  提供: NOKOさん



             膨大な暗記力を要求される受験勉強、多数の受験科目、
理系だった私は、敬遠して日本史を選択しませんでした。

明治維新、海外先進国を真似て、鹿鳴館という上流社会の社交場があった。
津田梅子ら女子国費留学生がアメリカに渡り、その後名門津田女子大学を開設した。
朧気ながらただ、その程度の知識だけが辛うじて片隅にあったのみでした。

詳しいことは何も知らず、いや、知ろうともせず、今日のここまで生きてきました。

そして今ここで、明治に生きた女性たちの素晴らしい素顔を知る機会を得、
自分なりにまとめてみたいと思いました。











会津若松の友人から、
自分たちで手作りの演劇をするから見に来ないか
とのお誘いを受けました。 
 
演劇には余り縁のなかった私、
久しぶりの観劇とドライブ旅行も楽しいだろうな
そんな程度のノリで、友人と二人珍道中、初秋の会津に向かいました。

大山捨松その名前すらもちろん、全く知りませんでした(^^ゞ





〜戊辰(ぼしん)戦争〜
                          1868年 慶応4年=明治元年


                                新聞から

市民手作りの舞台、文字通り皆さん、熱演です。
素晴らしい〜〜〜!! \(^o^)/

ところで、大山捨松、この奇妙な名前。
明治の人って、女の子に変な名前をつけたものだなぁ〜!

いえいえ、もともとは、山川咲子という美しい名前があって、
愛情深く育てられていました。
なんといっても会津藩家老の大切な大切な娘だったのですもの。。

お芝居が始まると、まもなくこの場面、戊辰戦争 です。

官軍・薩摩兵の包囲の中、女子供は鶴ヶ城に篭城し、
決死の覚悟で、城を守ります。
そして砲撃で落城。。白旗が掲げられました。 

飯盛山から焼け落ちた鶴ヶ城を見て、
白虎隊の少年たちは、潔く自刃したのでした。

また会津藩家老西郷家一族21人は(2才〜77才)は
そのとき籠城せず、全員自刃しました。





鶴ヶ城、血涙の開城   和歌 山本八重子    1868年 慶応4年=明治元年

そうした壮絶な歴史を持つ会津の地でした。





昭和40年、鶴ヶ城再建


旧会津藩士家族たちは本州最北・陸奥斗南に移住し、誇り高く苦難の道を歩みました。
そして、咲子にはアメリカへの女子国費留学の道が開けたのです。
母親は咲子を捨てて待つ、そう、捨松と改名させ、遠く三界の地へと送り出したのでした。 1871年




〜〜おけい、望郷の立ち姿〜〜


         そのころ、会津藩の庶民の娘 
おけいは、スネル家の子守役として、
1869年、多くの人たちとともに、
ゴールドラッシュに湧く
アメリカ・カルフォルニアに移住しました。

おけいは、
日本女性初アメリカ移民となります。
現地での暮らしは困難を極め、
明治4年19歳で病いのため
その短い生涯を閉じました。


ドイツ人の会津藩士

会津藩は戊辰戦争に備え、武器商人
ドイツ人(プロシャ)ヘンリー・スネル
軍事顧問に招きました。

スネルは、日本女性と結婚し子をもうけ、
材木町の屋敷に住んでいました。
近くの大工伊藤文吉・お菊の
長女が「おけい」です。
おけいは、スネル邸で子守りをしていました。











〜1871年 明治4年11月11日 横浜港出航〜

皇后陛下のお言葉






皇后接見に参内した5人の少女(1871年)
左より上田貞子(15)、永井繁子(9)、山川捨松(12)、津田梅子(8)、吉益亮子(15)
                                  (津田塾大学津田梅子資料室所蔵)





明治4年(1871年)
アメリカ出発を前にデロング公使夫人と記念撮影する女子留学生たち
左から 山川捨松(12)、上田貞子(15)、津田梅子(8)、デロング夫人、吉益亮子(15)、永井繁子(9)

11月11日に出発、サンフランシスコ着1872年1月15日
                   ワシントンに到着したのは翌年2月29日でした。





明治5年(1872年)2月29日、ワシントンに到着
左から 永井繁子、上田貞子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松 (石黒コレクション蔵)

このうち、上田貞子(15)、吉益亮子(15)、は無念の帰国。
所謂ホームシック、心身のバランスを崩しました。 
すでに分別をわきまえ、もう、嫁に行く年頃、それと現実の落差。
全く異質な環境への適応が平凡な少女には、困難だったのでしょうね。。


年少の三人が留学を続けることになりました。


捨松の場合、次兄健次郎がすでにアメリカに留学中であり、
日本語を忘れないように常に勉強させ、何かと頼りになってくれました。

それから、会津藩家老の娘、鶴ヶ城に籠城して城を守ったことや、
その後の苦難の流浪の旅、など数々の困難を、
幼いながらに乗り越えてきた実績があります。 それと責任感、天性の素質。

日本で最初にアメリカの大学を卒業した女性になりました。


永井繁子(9才)は、自由で裕福な環境で、明るく、のんびりと育ったようです。
幼かったことも幸いして、そのままアメリカ人家庭に溶け込みました。
在米生活を大いに楽しみ、その後、日本人留学生と恋愛結婚しました。


津田梅子の場合、8才、ほんのあどけない子供でした。
日本での家庭生活は余り幸せではなかったようです。
子のいないアメリカ人家庭に暖かく迎えられ、可愛がられたとすると、
すぐにアメリカ生活に馴染み、日本語を忘れてしまいました。

後に津田女子英学塾を創設したことは、皆さん、ご承知ですね。





岩倉使節団一行と一緒に出航しました。
左から木戸孝充、山口尚芳、岩倉具視全権大使、伊藤博文、大久保利通

幕末に結んだ欧米諸国との協定期限の延長交渉のため訪米した一行。


西洋諸国の文明に触れること、その衝撃!
自国の将来を思うとき、
明治の指導者たちは富国強兵しか浮かばなかったのでしょうか?


少女たちは懸命に文化を学びました。
お互いに良いところを吸収し理解しあうことが
お国のためになる、それが自分たちに与えられた使命であると
硬く信じていたのです。



期せずして、弱かった日本史の探訪をする機会を得ました。 不思議ですね。。。



続 く   ★   3





参考資料:
久野明子著  「鹿鳴館の貴婦人 大川捨松」  中公文庫





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